
AI共存時代に自分の中で決めておきたかったこと。
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AI時代の写真、自分なりの線引き

雑記。
少し前に、HPの方に写真活動におけるAI使用に関する考えというか方針というかを追記しました。
皆さんご承知の通りで、今後の我々の生活は「AIと共存」していくことになりそうです。現に私の生活や業務でもAIに任せたり相談することが増えてきました。
無論便利な部分があるのも分かるし、実際に触ってみて驚かされることもあるわけです。
誤解のないように先に言っておくと、AIそのものを頭ごなしに否定するつもりは全くありません。
善と悪に分けるのもどうかとも思いますが、ともあれ今の段階ではまだ判断することは出来ません。ひとまず注意しつつもひとつの便利な道具として必要な場面では素直に頼ればいいのかなと思っています。
まぁ否定したところで今の世界の流れを見たところでどうしようもないわけですし、おそらく触らないよりも触っておいた方が先々の為にはなるはずです。
今の現状から見ると、今のところは使い手次第、使い手の問題かなと。
ただし、この考えとは別にきちんとしておかなければならないのが「写真」です。
AIを使えば写真をさらに思いのままに操ることが出来てしまいます。
この状況、写真を扱う人間として自身の作品作りや写真に関してはきちんと明確な基準を設けなければならないかなと考えました。
今回はそんなAIと写真に関して自分なりに決めたことの話です。
AI時代に写真を撮るために決めた方針
色々言ってますが、方針の中身自体はシンプルです。
以下、HP追記内容抜粋。
私の写真は、自分の目で見て、自分の足で歩き、自分が感じた瞬間を記録したものです。
AIによる画像生成は一切行っていません。
現像においては、その場で感じた印象を損なわないことを基本とし、過剰な修正や演出は行いません。
言葉にしてしまえばそれだけなんですが、決めるまでの過程でぐるぐる考えたことの方が自分にとっては大事だった気がしています。
本当の理由

何故これを書こうと思ったのか?
正直に言うと、一番の理由は「疑問を持たれたくなかったから」なんだと思います。
この写真は本当に自分の目で見て撮影したものなんだろうか?はたまたどこまで手を加えているんだろうか?そういう疑いの目を自分の作品に対して向けられたくなかった、それが一番の本音です。
誤解してほしくないのですが、これまで何か疑われるようなことややましいことがあるからってわけでは全くありません。
ただ、AIによる画像生成の精度が上がるにつれて、何も悪いことをしていなくても、その可能性だけで疑われてしまう時代になっていく気がしています。
だったらその前に自分の立ち位置や考え方だけははっきりさせておきたいと思った次第です。
とはいえ、それだけかと言われるとそうではなかったりします。
疑われたくないから線を引く、というよりは「自分がその場に立って見て・感じて・持ち帰ったもの」だからこそ、それを作品と呼びたい。
そこだけは譲りたくない、という気持ちの方が近いのかもしれません。
守りというより「これだけは自分がその場から持ち帰ったものです」とちゃんと言えるようにしておきたい。そういう矜持の話なのかなと。
これは今でも既に問題にはなっているけれども、今以上AIがさらに発達していくにつれてさらに表面化していく問題かと考えています。
特に自然が相手だと、本当に偶然としか言いようのない瞬間が撮れることがあります。
今はそれを見て素直に「すごい」で終わっているものが、これから先は「これ本当なのか?」というところから始まってしまう、そういう時代になっていく、というよりもう既になってるんでしょう。
画像生成と写真は別

たとえ写真を読み込ませ出力したとしても、私は画像生成を写真とは分けて考えています。
とはいえじゃあ写真が何なのか?字の通りで「真を写している」かが判断基準なのか?と言われると、そうでもない気がします。
フィルム時代にも「覆い焼き」や「焼き込み」といった手法がありました(やったことはないけど)。
見せたい被写体を明るく残したり、逆に周辺をあえて暗く落としてそちらに自然と目がいくようにしたりと、まぁそういう技法だそう、デジタルでもありますね。
なんとなくデジタルになり現像がより自由になったと思われがちですが、実はフィルム時代にもいろんな手法で写真に手を加えられていたわけです。
そしてデジタルになってからは、PCでの現像という工程を経ることがむしろ当たり前になりました。
そう考えると、写真がすべて「真を写している」ものだったかというと実は昔からそうでもなかったのかもしれません。
正直に言ってデジタル写真を扱うにあたり、「私はAI及びAIによる補助を一切使っていません」と言い切ってしまうのも、それはそれで本当に言い切れるのかは微妙なところです。
近年の現像ソフトは率先してAI関連技術を搭載しています。
ゴミ取りやノイズ処理といった、普段何気なく使っている現像ツールの中にもすでにAIの技術は入り込んでいますし、本体にもAIを活用していると言われる補助機能が搭載されているものもあります。
そこまで含めて「不使用」と言ってしまうと、実態とはズレた話になってしまうし、はっきり言えば噓になる。
私が伝えたいのはそういう部分的な技術の話ではなくて「見たものと明らかに違うものに変えてしまうような使い方はしない」というところです。
過度に手を加えて、その場で感じた印象から離れていってしまうことだけは避けたい。
極端な話、朝を夜に変えてしまう、夏山を冬山に変えてしまう等々、そのラインだけは自分の中でちゃんと引いておきたいと思っています。
これは現像でも同じことです、現像に関しても過度なものとならないように自分の中でルールを決めています。
新しい技術と共存せざるを得ないのであればまずは自分の中でルールを決めるのが一番良い気がしています。
技術としてどれだけ精巧になってもそこは自分の中で分けておきたいところです。
カメラを構え、その場に立って実際に見たものを記録する。
そこから始まっていないものは、自分の作品として並べるつもりはありませんし、写真を撮る入り口はやはりそこに変わりはないはずです。
きちんと言葉にしておかないといずれ自分自身の行動にも説明がつかなくなる気がします。
わざわざ書かんでもよいかもしれないけど、自分の中では重要なことかなと考え、方針として残しておくことにしました。
山へ登る理由

山へ登る理由が絶景や達成感を味わうためというものから、その場でしか感じられない何かを持ち帰るために変わっていきました。
これは最初からそう思っていたわけではなく、登り続けるうちにじわじわとそう感じるようになってきたことのような気がします。
暗闇、暴風、雨、雪、霧、孤独、静寂。そういう畏れのようなものがあるからこそ、その前後にある美しさが強く心に残るのかもしれないなと考えています。
でもこれらは結局、生成では届かない部分なんですよね。彼らはまだそれを体験出来ないわけです。
もちろん今後インターネット経由してどこかの山小屋の温度や湿度センサなどから近しい情報を得る、なんてこともするかもしれませんし、何かしら動ける身体を手に入れて体験しに行くかもしれません、はたまた人間の協力を経てそれを知るかも、ともあれ今は別にそこまで考える必要はなさそうです。
寒さで指がかじかむ感覚、風の音で何も聞こえなくなる瞬間、自分が撮りたい時が訪れるまでひたすらトイレを我慢してカメラの前に立つ等々。
大した体験ではないものの、こういうものを経由しないと残せない「何か」というのもこれまたある気がします。
もちろんAIを使えばプロセスすっ飛ばして技術的には似たものが作れてしまうのかもしれませんが、そこに至るまでの過程ごと持ち帰りたいというのが自分にとっての写真なのかなと思います。
「何で撮ったというかよりも何故残したかの方が大事」だと、最近はより強く思うようになりました。
だからこそ、自分の写真だけは、自分の目で見て自分の足で歩いた範囲でとどめておきたい、そう思って、今回の方針に落ち着きました。
これからについて

今回は2026年6月の状況や考えからこの文章を作成しました。
HP記載内容についてはこれが最終形かと言われると、正直まだ分かりません。
時代の流れの中でまた考えが変わる、変えなければいけない時もあるのかもしれません。
細かい部分は、その時々で見直していくものなんだろうなと思っています。
ただ、今回の基本方針自体はいわば軸のようなものです。時代や社会がどう変化してもここだけは変えずに守り続けていきたいと思っています。
この軸こそが、自分にとっての「写真の真」なんだと思います。
まだうまく言葉にしきれていない部分はありますが、その時々で少しずつ輪郭がはっきりしていくもの、そういうものとして持っておくつもりです。
我々日々変化を感じることの多い時代を生きていますが、自分の考えや方針、やりたいことは変えずこれからも自分の目で見た景色を届けていけたらと思います。



